〇〇の自由
2020年10月14日(水)
前回常識の範囲が狭まると書きましたが「間違い」でした。間違いと言うか誤解のなきよう書くと、私の常識の範囲が狭まると言うことです。
古い世代の価値観での常識が常識でなくなり、若い世代の価値観で新しい常識ができる。新しい価値観についていけない人にとっては常識の範囲が狭まる。
話は変わりますが松本清張の短編に「空白の意匠」と言うのがあります。
書評では地方新聞と広告主(あるいは広告代理店)との力関係だとか、新聞社内部の社会部と営業部の考え方の違いだとか、報道の自由だとか色々と書かれていました。私は高校生の時分に読んだのですが、あまりの理不尽な結末に何かを読み間違えたかともう一度最初から読み返した覚えがあります(後年嫁さんも書棚にあるのを引っ張り出して読んでみて同じように読み返したそうです。興味ある方もいるやもしれませんのでネタバレもアラスジもなしで)。
高校生の私はこれを読んで社会に出れば理不尽なこともままあるという覚悟を持った覚えがありますが(それに耐えられるかどうかの自信は勿論なかったです)、幸い仕事においては勤め先が良かったのか、私が脳天気で馬鹿なのか、鈍感なのか理不尽な思いをした記憶はありません。
今学術会議の選に漏れた先生方は理不尽な思いをされているんでしょうか。通常問題なく選ばれるものが選ばれない、理由の説明も漠として具体的に自分に不適当な事情があったかどうかもわかりにくい、当事者からすれば理不尽な思いがあったかもしれません。
マスコミは言論・学問の自由の侵害だと喧しいですが、何からの自由を意図しているかにもよりますが、(お金と言う)ひもがついたものに自由なんかないのじゃないかなと思います。
言論と学問の自由を堅持しようと思うなら、お国からのお金は断って自前でやればいいだけです。
マスコミがそれを指摘しないのは、言えばそのまんま広告主の意向には逆らえない自分に返ってくるからでしょう。
人間が社会生活を営む以上諸々の制約が生じますし、義理人情も生まれます。諸々の制約を無視すれば犯罪者になりかねないし、義理人情を無視すればヒトデナシです。
それを自由のない窮屈と感じるのか、社会生活上必要なものと考えるのか。
義理人情は言い換えると「しがらみ」です。しがらみのない生き方と言うのは随分に魅力的に見えますがそれは自分一人に限っての話で、誰もがしがらみのない生活を送ろうとすれば随分と殺伐とした味気ない感じがするのは私だけでしょうか。
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