京都大原記念病院グループリハビリスタッフのあんなことこんなこと

そんなこと

土井

どっちもどっち

2012年10月13日(土)

最近気になっているやり取りがあります。

①「(客観的に知りえる状況にあったとしても)知らなかったので、こんな結果になりました」

②「知っていたけれども、大丈夫だと思ったんだけれども、こんな結果になりました」

③「知っていたけれども、片目つぶっていたら、こんな結果になりました」

④「知っていたし、ちゃんとしていたはずだけれども、こんな結果になりました」

そんなときに、「○○だから、次はちゃんとやってね」という状況がよくありますが、

状況的には、①④はそれほど悪い印象ではなく、③はコラッという感じですね。

それでも、お話をした後、どれくらい気をつけられるのかには結構差があるように感じます。

 

というのも、

①では、悪気がなく、「次は気をつけます」ってなることが多いのですが、

そんな傾向の人では、毎度毎度同じようなことが起こっているようです。

②では、悪気が無かったが、多少責任は感じて反省しているんだけれども、

そんな判断が正確になるかというと、対して変わらない状況が起こっているようです。

③では、一番悪気があるように感じますが、

その人の気質は変わらないものの、それなりに改善はあるようです。

④でも、①と同じように悪気はないので、「次はさらに徹底します」ということになるのですが、

そんなに変化していないようです。

 

そもそも、

①知ろうともしないこと、問題に気づかないこと

②情報が不十分なことも含め、誤った判断をしたこと

③解決しようとしなかったこと、さほど問題に感じていなかったこと

④やっているつもりだけれども、やりもらしたこと

でしかなく、結果が同じであれば、同じ程度の問題点として扱うべきでしょう。

 

知らなかったとか、未熟だったとか、やったつもり・・・とか、

「仕方が無かったこと」のような気がする理由かもしれませんが、

ちゃんと原因と解決方法を見つけないと、同じことを繰り返してしまうのでしょうね。

こんなこと

遠藤

技を盗むって?

2012年10月01日(月)

彼が盗めって言ってましたね。

 

でも、盗むには下地が必要です。
まずは、相手のしている理由がわからないと同じ事をしているつもりでも、
同じ事ができません。
まねる事が大事と言われますが、ただまねをしても同じです。

 

私が思う盗むってことは、
例えば木を削って彫刻するとします。
木に現れる変化を比べて、自分となぜ師匠は違うんだろう?同じ事をしているつもりなのにって疑問を持つと思います。
そうです、なぜか師匠がした後は感動するほどすごいのに、自分がした後はただ削っただけになるんです。
そこで、理由を道具の違い?木の材質?木目????って思いますか?
だって、師匠が自分の道具を使って自分のを修正しても感動できるものになると思いませんか?
きっと、まず自分の腕前不足や自分が感じていない何かを師匠は感じたりしたりしているに違いないって思いませんか?

 

それが、盗む第一歩です。
盗むっていうのは、その疑問を感じるってことであって、
後は疑問を解決する為に努力して解決できるようになる事だと思うのです。

 

どんな職人さんも師匠が居たとしても、師匠と同じで満足はしないでしょう。
でも、師匠はいつまでも目標かもしれません。
それはきっと自分で身につけた事と師匠が身につけている事は、寸分違わず同じではないからこそだと思います。
だって盗んだ技は自分で磨きをかけていくうちに、
同じ技でも自分だからできる技に微妙に変化して、昇華されていくと思います。

 

作業療法士も、理学療法士も、言語聴覚士も同じです。
先輩や師匠がしている事から盗んでくださいって言葉は、
きっと、あなたがどれだけ疑問を抱いて解決できるかって問われているんですよ。
そして、
ヒントは患者さんの言動や些細な反応にきっと有ります。
でも、学生さんは実習がありますが、些細な反応をすぐ見抜くのは難しいので、
実習では(指導者のマネよりも)患者さんのマネをできるだけ精密にたくさんすると、見学だけよりも数段感じることが増えますよ。

 

昔、
美術の授業や通っていたお絵描き教室で、イメージ通りにいかない自分の作品を先生がなぶると、
なぜか整って自分のイメージより良くなる。
そのかわり自分の作品でもなくなった気がして、少し悲しくなったことを思い出しました。
今でも美術館にいったりして鑑賞するのは好きですが、
美術の技を盗むにはいたらず、自分ではイメージどおりの作品が作れないまま今に至ります。

 

美術の技を盗めていたら今と違う事していたかな?

へんなこと

土井

ごっこ遊び

2012年9月17日(月)

先日、休みの日にどこか出かけたいと子供にせがまれ、

甲子園のそばにある、子供が楽しみながら仕事をする施設に行きました。

一言で言うと、大掛かりに(入場料を含め)ごっこ遊びをさせてくれるのです。

子供たちが、仕事(というより作業)を体験できるよう、

係の人が、ほぼ直接的な誘導をしながら、関わっておられました。

わが子2人は消防、電車・・・いくつかの仕事(ごっこ遊び)を楽しんでいましたが、

そんな姿を見ながら、気が付いたことがありました。

 

いまどきの子って、ごっこ遊びをあまりしないなぁと。

(少なくとも、わが子とその周りでは、ほとんど見ない気がします)

しかも、

長男が小さい頃は電車が好きで、いろいろと連れて行ったせいか、

長男の電車の車掌姿はちょっとは板についていましたが、

わが子も含め、役に成り切っている子がとても少ないのが気になりました。

一昔前のごっこ遊びのほうが、子供たちにリアリティがあったように思います。

 

この施設に限らず、世に売られているおもちゃや、通信系の付録にありがちな教材は、

昔に比べて、リアルすぎるものも出てきていますが、

それを使って遊ぶ子供たちがリアルになるとは限らないようです。

まわりや大人がやっていることをごっこ遊びするにしても、

自分たちで、職業に興味を持ち、いろいろ観察し、それらしい素振りに気づき、

いろいろ工夫して準備して、設定を決めて、真似事をする・・・わけですが、

そんなことしなくても、なんとなくごっこ遊びが形になる時代なんでしょうか。

便利になった分、かえって創造力や観察力は必要ないのかもしれませんね。

 

どんな仕事でも、趣味でも、

「教えてもらうんじゃない、盗め」と職人気質に格好良く言いたいところですが、

見よう見まねで工夫して習得したり、自力で作り上げたり・・・といった作業が、

子供の頃から経験し難いような、そんなご時世なのかもしれません。

※1 「盗め」->「作業や物をそのままパクったりコピーすること」ではありません、念のため。

※2 時代・世代に関係なく、「盗め」ができるかどうかで雲泥の差があると感じます。

 

何でも、お膳立てがある時代の教育や指導の難しさを感じた一日でした。

そんなこと

土井

夢と現実のバランス

2012年8月24日(金)

子供の頃からバイクや車が大好きな子供でして、

5歳の頃には、どのおもちゃ売り場にあるミニカーも、全て持っていました。

学生になり、免許をとった時には、

あれが欲しい、これが欲しいと、欲しい車がいっぱいで、試乗三昧。

運転技術がないと運転ができないものに「将来乗るぞ!!」と

バイトをいっぱいしてみたり、走りこんで練習したりで、頑張っていました。

 

就職して期間もたち、生活が落ち着いた頃、

好きな車を買って、ちょっとずつステップアップしようと思ったのですが、

ほとんどがATのみで、エコ志向で、ずんぐり大きくて、

ミニバンかコンパクトカーの形をしているなど、似たり寄ったり・・・・、

走る・運ぶ・装備・安全性・快適性・耐久性など、

車の基本要素で、明らかな癖のある車なんてほとんどなくなってしまいました。

(電気か、ハイブリッドか・・・ぐらい)

もう、周りに売られている車の中に、私が夢見たものはほとんどありません。

 

いつも、

親や周囲からは、大人になって、稼ぐようになったら、好きにしたらいい・・・

と言われていたものの、

できるようになったときには、普通には手に入らなくなってしまいました。

そして、コツコツ努力していても、

能力・お金・環境、そしてタイミングの全てがそろわないと夢がかなわないのが現実で、

ただの憧れになってしまいました。

 

何事も、頑張ればなんとかできるのではなく、

目標を達成するための条件や、やんごとなき事がいっぱいあり、

その条件が全てそろうのか、どれくらいそろわないのかによって、

どの程度、達成できるかどうかが変わります。

そして、

夢だけを追い求めれば、生活や環境が破綻してしまいます。

現実的な対応に徹すると、意欲や想い、そして個性が失われます。

どちらもバランス良く・・・できたらいいんですけどね。

なかなか難しい。

 

母親によく言われたことと、師匠から指導としてよく言われたことが、

「無いもんは無い!言っても無駄!だから、それの上で何とかするんや」

でしたが、

今はそのバランスが大事だと言うことなんだと理解しています。

 

それにしても、

私が夢見る人生最後と決めたバイクは・・・たぶん届かぬ夢・・・

そして、夢見る目標の車は・・・まだ少し現実的か・・・

それでも厳しいんでしょうね(;_;)

へんなこと

橋本

考動 その2

2012年8月01日(水)

暑いですねぇ。今朝7時前に家を出たら、琵琶湖湖西の国道161号線沿いの温度計が32度を表示していました。大津というところは京都、大阪のベッドタウン化しているところもあり、人口が増え続けていますが、京都に比べてもまだまだ自然豊かなところですが、やはり街中は大都会と変わらずアスファルトからの照り返しは強烈です。

私が子供の頃は夏休み中の勉強は午前中の涼しい時間にと言っていたと思うのですが、今時そんなことは日の出直後でもないとありえませんから、いつ勉強したって変わりないんじゃないでしょうか。

 

7/19の聞かない、知らない、わからない。その1 に続いてまた息子の学校の話ですが…。

皆さんは「学校評価」というものをご存知ですか?

私も昨年妻に聞くまでそんなものの存在など知りませんでしたし、妻も学校に保護者代表で呼び出されるまで知らなかったようです(そこもちょっとおかしいですけどね)。

 

どんな事をするかといえば、生徒、教師、保護者がそれぞれの立場から学校を評価するということらしいです。で出た結果を保護者の代表にありがたくもお教えいただけるということらしいです。何故代表だけなのか、何故保護者全員に周知するようにしないのか、私は聞いていません。

 

とにかく妻は保護者代表として昨年のある日息子の通う小学校の校長室へ出向いたわけです。そこで教頭先生から「学校評価」の結果について知らされたわけですが、細かいところは何も頭に残っていないと妻は言っていましたが、印象に残っていたのは、4年生の生徒たちの学校に対する評価が他の学年の生徒たちに比較しても非常に低かった事と、その4年生が3年生の時の学校評価の結果と毎年の4年生の学校評価の結果を教頭に尋ねたところ、「知りません。調べていません」返事が返ってきたそうです。

 

日常でも非日常でも何かが起きた時、それは何故かと考えるところから、理由を摸索し、導き出し、理由(結論)から人間は知恵を得、文化と文明を築いてきたわけです。

ヒトとその他の生物の差は「何故か」と考えられるか否かだと私は考えています。

 

「ゆとり教育」を受けた世代は考える力がないなどと言われていますが、本当にそれだけの理由でしょうか。教育者自身が考える気がないなら、当然子供も考えなくなるんじゃないですかね。

 

「評価」をしても、「調査」をしても、「アンケート」をしても結果を見て考える気がないなら、やらないことと同じです。

 

次回私のブログは8/10です。

 

 

あんなこと

橋本

考動

2012年4月09日(月)

昨日は家族で「NANTA」の大阪公演に行ってきました。韓国発のショーですが、ほとんど台詞がなく、大人どころか小学生の息子でも十分に楽しめたようです(昨年の桂文珍師匠の落語は途中で飽きてしまったようですが)。

 

本題はそこではなく、往きのJR車内でこんな言葉を見つけました。

「考動」

です。JR西日本の安全策PRポスターに使われている言葉です。JRの造語かなと思い調べてみたら、それ以前に2005年ごろから使われている言葉のようです。誰が言い出したのかは定かではないですけど、ここ1~2年で結構使用されているようなのがネット検索結果から推測できます。

 

考えて動く…至極当たり前のことなんですが、あえて造語にして使わねばならないほど、世間では考えない、動かない人が増えていると言う事でしょう。

 

先月3/26の「13歳のハローワーク(あるいは教えたら出来る仕事なのか?)」でも書きましたが、考えない人、動かない人の言い訳は決まっています。「教えてもらっていないから出来ない」です。教えて出来る事にどれほどの価値があるのでしょうか。そんな事に資格が必要なんでしょうか。

明日は年に一度のリハビリテーション部全体ミーティングです(ほぼ全員140人ほどが一堂に会するのはこの時だけ)。

ちょこっと「考動」の話でもしてみようかと思います。


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