体を動かすコツ?
2012年12月08日(土)
たとえば、よく使われる例が、
椅子に座っている方に、
部屋から移動しようと思って、
「歩いて下さい」といっても歩けないのに、
「あそこへ行きましょう」というと歩いて移動できたりします。
歩く練習中に、
「足を上げて下さい」といっても足が上がらないのに、
「これをまたいで下さい」というと足が上がったりします。
言葉や環境が作るマジック(専門用語では有りません。私がそう呼んでいるだけです。)です。
何気ないことですが、この要素を使う訓練は結構あります。
だって、この方々はふざけているのではなく、
本当にできなかったり、できたりが変わるのです。
同じ人なのに、違う人が関わると、できることが変わることがあります。
それは、
その人が優しいとか、怖そうとか、雰囲気が良いとか、仲が良いだけが理由ではありません。
その人に合ったコツを掴んだかどうかも要素にあがります。
そのためには、観察とか、その人を知ることが大事になるのです。
別に行動だけではありません。
肘を曲げ伸ばしするだけの運動訓練にもこのマジックは使われます。
1.肘の曲がる所に注意を向けて運動する
2.肘を動かす筋肉に注意を向けて運動する
3.肘ではなく手に持つ物に注意を向けて運動する
4.手を動かす範囲に注意を向けて運動する
5.会話に注意を向けて運動する
どれも人によってはマジックになります。
誰にでも同じことがマジックにはなりません。
他にもマジックはあります。
頭や体は、いろいろな影響を感じて、受けて、何気に動いています。
障害を受けると、影響が出すぎたり、感じなかったり、何気に動けなくなっています。
でも、どこかに時折つながる抜け道があったりします。
今日も誰かマジックにかかっているかもしれません。
最初はスタッフがいるときだけかかるマジックだったけれど、
いつの間にか、当たり前に自分でできるようになることを、
マジックを不思議と感じなくなることを目指しています。
器用になるには
2012年11月10日(土)
今年度は、病院の前や駐車場など、病院周りの工事も多くあり、
患者さんや利用者さんにご迷惑をかけております。ご協力ありがとうございます。
さて、そんな工事をみて、ふと思い出すことがあります。
今回の話題は、学生時代のアルバイトのお話に遡ります。
以前、この場で話題に上げましたが、土木関係などのアルバイトをしていました。
結構ちゃんと真剣にやっていたので、
ユンボ(パワーショベル)ぐらいは動かせるようになりました。(要免許)
(たしか、ジャニーズのTOKIOのリーダーが免許持ってましたね。)
そのパワーショベルですが、
構造的には手に近い動きをするようにできています。
「手首を曲げ伸ばす」
「肘を曲げ伸ばす」
「肩を上げ下げする(+水平にも振れるタイプもありますね)」
「体を回旋させて向きを変える」
これをレバーで一つずつ操作できるように作られています。
基本は油圧で単一方向に動かすような単純構造なのですが、
未熟な人が、これを単純に順番に動かしても、ほとんど土砂をすくえませんし、
力加減もなく、闇雲に曲げたり伸ばしたりするだけ。
でも、
上手な人は、全ての関節?を同時に器用に動かして、(当然レバーですが)
力加減ができるよう調整して操作されていて、たくさんの土砂をいとも簡単にすくいます。
ほんと上手な人は、ボディの重さを上手く使っていたりもしておられます。
私は不器用なので、ある程度、仕事で使えるようになるまで、かなり大変な思いをしました。
以前、かなり軽い部類の脳梗塞を経験した話を時々書いていますが、
軽い麻痺の手を、元の器用な手として使えるようトレーニングしていたとき、
このユンボの操作を練習しているときと同じような感覚をいつも感じていました。
脳が人間の体に指示を出して、手が器用に動く・・・
作業員がレバーを操作して、ユンボが器用に動く・・・
脳と体の関係は、わかりやすく言うと、作業員とユンボの関係に近いかもしれません。
筋力や角度などは、機械で言えば基本性能でしかなく、
筋出力を調整したり、器用に動かすには、操作を鍛えなければならないようです。
ユンボを操作しなくなって10年を遥かに超え、もう操作は忘れてしまいましたが、
ユンボの操作が上手くなってくるにつれ、
機械の爪の部分と自分の指先の感覚が重なってきたことを強く覚えています。
車の運転で、車両感覚と肩や足が重なってくる感じと同じような・・・そんな感覚です。
トレーニング次第で血の通わない機械まで自分のように感じられるなんて・・・
人間の脳ってすごいですね。
これさえやれば・・・
2012年11月08日(木)
結構前になりますが、私が就職した頃、
「リハビリの先生になおしてもらう」と表現される方がほとんどでした。
しかしながら、リハビリテーションの効果を左右することとして、
「患者さんが質・量あわせてどれだけトレーニングしたか?」
ということが核心的な要素となります。
つまり、
「なおしてもらうもの」のではなく、「やって身につけるもの」なのです。
なので、
「運動や歌、勉強などと同じように、自分で積極的にやらないと上達しないですよ」
「でも、そこは上手いことできまへんか?」
「私たちが動くだけで上達するなら、みんな甲子園や東大・京大にいけるようになっちゃう」
「ほんまやな~(笑)」
なんて、すこしでも理解してリハビリしていただけるよう会話していました。
昨今、一般的にリハビリテーションが知られるようになり、
「リハビリテーションはがんばってしないといけない」という意識が広がり、
現役世代を中心に、積極的な方が増えてきています。
また、インターネットやテレビ、書籍など、情報があふれる時代でもあり、
「私はこの方法だけやって、ここが治ったらそれでいいから、それだけやってくれ」
「私はこれをやってもらいに来たんだから、これをずーっとやって欲しい」
というご依頼を頂くことも増えてきました。
これだけやっていたら・・・って、
たしかに、世の中には○○汁や○○エキス・・・など、それを謳った商品も溢れていますね。
でも、
一般的には、集中的・専門的リハビリテーションを必要とする人では、
「一つだけ悪くてそこだけ治せば解決する」という人は、かなり稀なケースです。
ちょっとした捻挫で足を1週間引きずると、
治ってもその引きずり癖が残ることもあるぐらいですし、まずいないかもしれません。
このリハビリさえやれば・・・・は、
「素振りさえやっていれば、レギュラーになれる」とか、
「シュート練習さえすれば、ハットトリックができる」とか、
「時間とお金を費やせば、一流になれる」とか、
そんなことと同じような、そんな感じです。
また、病気や怪我をするということは、
「割に上手かった野球やサッカーなどが下手になり、苦手と思うようになった」
という感じで理解していただいても間違いではありません。
苦手だけれども、上手くなりたいし、上手くならないといけない・・・
そのためには、好きなことも、嫌いなことも、やっていこう・・・
そんなイメージで、リハビリテーションに取り組んでいただければと思います。
手遊び
2012年10月11日(木)
手遊びと聞いて何を連想されますか?
子供の頃、親や先生に叱られたイメージ?
人の話を聞いていないって思うイメージ?
落ち着きが無い?集中力が無い?・・・などなど、
とにかく、日本ではマイナスのイメージの方が多いのではないでしょうか?
以前、私が軽い脳梗塞を患った話は何度か書いているとおもいますが、
今でも、それできないわ・・・と時々新しい発見があり、それができるように練習しています。
でも、
一日の生活の中で、その動作を必要とする時間はそれほど頻回にはありませんよね。
また、ある程度できるようになったら、それほど練習しないようにもなります。
咄嗟には、どうしても使いやすいほうの手を使ってしまいますし、
動きが悪い状態だと、「そもそも作業できない」と使わないことも多くあります。
そんなこんなで、悪いほうの手を使おうとする機会って、思うほど取れていないのです。
なので、
似たような動きをするような手遊びをするようにしています。
意味も無いし、落ち着きが無いことだけれども、気にせずやっています。
癖や遊びみたいなものなので、心地良かったりとか、なんとなくやりたくなるような、
そんな所がポイントだと思っているので、
そのうち、マイブームみたいにやるようになってしまう感じですが、
そんな手遊びで、結果的にそれなりに運動量が確保されています。
どんな練習をするかも大事ですが、
自然とやっていけるような設定次第で運動量が変わるというのが、私の実感ですね。
日々変化する理由
2012年9月26日(水)
赤ちゃんを見ていると日に日に成長していることがわかります。
その成長過程には、確認作業がかなり影響しているといわれています。
そして、赤ちゃんにとって、もっとも有効なセンサーは口・舌だそうです。
だから、
赤ちゃんは、いろんなものを口に入れます。
何度も何度も、口に入れて確認して理解しようとしています。
自分の体だって、手を口に入れます。
そのうちに足を口に入れます。
そうすることによって、口や舌の感覚を介して、
手足を自由に使うきっかけが作られます。
大人はその状況次第で気にも留めないことがほとんどですが、
音や光にも敏感に反応し、その方向をちゃんと確認しています。
先日、第3子を風呂に入れたとき、
湯桶から注がれるお湯を見て、口を近づけようとしていました。
そのうち、手で触ろうとしはじめましたが、
そのうち、片手で掴もうとしていました。
そのうち、両手を使って掴もうとし、
そのうち、手に加えて足も使って掴もうとしていました。
こんなことがいろいろあって、お湯というものを理解していくのでしょうね。
かたや、
もし、脳梗塞などの病気で、その感触を覚えなおさないといけないケースがありますが、
大人だとそこまでしてまで、貪欲に確認したり、手に取ろうとしないでしょうし、
既成概念や脳内思考だけで処理し、例えばお湯が注がれていると思うだけでしょう。
そんなことからも、大人の頭の硬さが生まれてしまうようです。
2月末に生まれた第3子は、今日もいろんなものを口に入れています。
でも、もうそんなに口に入れたり手に取らなくても良いものも出てきたようです。
こうやって、日々新しいことを吸収し、理解し、成長している姿を見ていると、
自分で確認したり、自分でやってみたり・・・、
そんな作業が「脳」のためにとても重要な役割をしているんだなぁと、痛感する毎日です。
「良い」+「良い」=「より良い」??
2012年9月13日(木)
昔、学生時代の物理の先生の話だったと思いますが、
たしか、万有引力とかのテーマで、
「ものは存在するだけで、他に影響を与えている」という話がありました。
そのときは、なぜ人は地球の上に立てるのか?という話題から、
引力や斥力などの説明があったと記憶していますが、その授業で、
どんなものの間にも、お互い引き合う力と反発しあう力があって、
バランスが取れるところで安定するという話だったと思います。
(そろそろ、難しくなってきたのでやめます)
ややこしい物理法則に限らず、
「風が吹いたら桶屋が儲かる」的な影響ぐらいはどんなことにもあるそうです。
特に意識しなくても、直接的に関係なくても、お互い影響されあってているということだそうです。
京都では、「鴨川等間隔の法則」があります。
三条~四条の間の鴨川の河原で座って話をしている人が、何故か等間隔に並ぶという法則ですが、
学生のころのいたずらで、等間隔のカップルとカップルの間の隙間に座ると、
(結構距離はあって、会話の内容がほとんど聞こえないぐらいの距離なのですが)
両サイドのカップルが両方とも直ぐにいなくなり、その後入ってこないことに感動したことがあります。
パーソナルスペースを考えると、それはそうだろうという意見もあるとおもいますが、
カフェやレストランではゆったりできるぐらいの距離ですので、
そんなに邪魔をしていない気がするのに影響を与えてしまうようです。
さて、
そんなことを含めて、皆がお互いに与え合っている影響ですが、
良いものを「効果・成果・親切」と呼び、悪いものを「副作用・代償・迷惑」 呼ぶそうです。
また、
同じように良かれと思っても、Aさんには良く、Bさんには悪いなんてこともありますよね。
そんな影響の良し悪しは、
人や環境、状態や状況、時間や季節、年齢や立場によって異なりますし、
影響しあう要素が増えれば、より複雑に絡み合っています。
鴨川等間隔だって、人が多い(飽和)しているときは等間隔ですが、
いつもちゃんと等間隔に並ぶわけではありません。
友達と座って休憩したいだけなら、多少狭くても気にならないし、
好きな人といい雰囲気になりたければ、相応に距離が欲しいし、
友達を騒ぎたいなら、距離をとったほうが気兼ねしないですよね。
また、居心地はともかく、居座ってしまえば、周りが距離をとろうとしますし、
どうしてもそこに座る理由があって座るなら、居心地も多少我慢できます。
少し話はそれますが、
これを解決するためにはこれ、これのためにはこれ・・・と
良いことを足し算するなど、特徴を純粋に捉えて判断する考え方があります。
例えば、「良いことを足し算する」とは
「良いもの」+「良いもの」=「とっても良いもの」と効果効能を捉えることです。
でも、本当は「○○という影響」があるだけで、
それはある人にとって良い影響であり、悪い影響を感じないだけであって、
良いこと以外にも影響があることがほとんどです。
例えば、腰痛などでコルセットをつけている人がいますが、
コルセットをつけると、おなかの力を入れない、入らない傾向の人が多くおられます。
ある種の腰痛を解決するには、おなかの筋力を鍛えることが効果的なことがあるのですが、
コルセットをつけているだけで、おなかに力を入れない習慣がつきやすくなるので、
いくら筋力トレーニングをしても、通常よりも筋力がつきにくくなることもよくあります。
この場合、コルセット(良)をつけながら、いくらトレーニング(良)をしても、
本人が思っている以上にトレーニングしないと、目に見える効果はえられません。
そういえば、昔知り合った人で、
日本好きで日本に住んでいるのに、母国語が荒れるからと
たとえ、日本語の意味がわかったとしても、母国語で会話される人が居られました。
それこそ足し算できる気もしますが、そんなことでも影響があるそうです。
やってみて気づくこと
2012年8月19日(日)
約1年ほど前、出かけた先で妻と2人で食事を食べたときのこと。
どうしても、お肉腹であった私は、ステーキコースを食べました。
何年もナイフフォークで食べるような食事をしていなかったので、
「久しぶりやね」といいながら、
前菜やスープを食べはじめたまでは良かったのですが・・・
お肉とライスを食べはじめると、
どうも左手のフォークで口に運ぶ動作がやりにくい。
「なんか食べにくくない、このフォーク」と聞くと
「そう?」
「よく見ると、おしゃれな形やし、この微妙なカーブのせいかな?」
「手に馴染まないのかもね」
なんて話していました。
食べ進めると、
フォークの背にライスをのせるまでは良いのですが、
ライスを口に運ぼうとすると、落としてしまう。
かなり意識しないと、口に運べないのは・・・久しぶりやからか!?
と思っているうちに、
次第に左手に入る力が強くなってきて、手に違和感が出てきた
これって・・・・
ここでようやく、なんで食べにくいのかに合点が行きました。
数年前の脳梗塞(とっても軽い部類ですが)の影響だと。
病気の後、しばらくの間、何をするにも感じていた違和感でした。
発症後、
職業柄、どういう風にしたらうまく使えるようになるかを細かく考えて、
工夫やトレーニングをしていたので、
利き手ではない左手でも、さほど困らないくらいには問題をつぶしたつもりでしたが、
ナイフとフォークで食べる食事が、特別な手の動かし方だなんて、考えても無かったのです。
それに、ナイフとフォークで食べるのに必要な動作の中には、
「その手の使い方をさせないようにリハビリする」と教えられた動きがありました。
どんなことでも、実際やってみないとわからない・・・は正直な感想です。
トレーニングしてからリベンジしましたが、ちゃんと快適に食べられました。
快適に食べられると、よりいっそう美味しくいただけるのは不思議ですね。
しかし、箸を使う動作も難しいけど、ナイフとフォークやるな・・・
たゆまぬ努力
2012年6月15日(金)
3ヶ月半になる第3子ですが、
寝転がせるとすぐに、寝返りをしようと頑張っています。
それも、女子テニスのシャラポアやアザレンカのように、
「んう”あ”っ!!」「あ”ー!!!」と声を出しながらチャレンジしています。
あんまり苦しそうなので、
泣き出す頃に手伝ってあげるのですが、(といっても、最小限の刺激や誘導ですが)
どうも手伝ってもらって寝返るのは不本意らしく、
それはそれで「わーわー」となんやら訴えています。
今週から、座布団などの段差を使うと、
そのうちに上手くうつ伏せに転がれるようになったのですが、
そのときには機嫌がいいことを思うと、自分でやりたいのでしょうね。
毎日、目に見えて進歩するので、
「もうこんなになった?すごいなぁ!」と驚き、
「あとちょっとや、がんばれ!」と応援する毎日なのですが、
さて冷静になって考えてみると、
「大人って、すぐにはできないことを毎日毎回頑張ることって、ほとんど無いなぁ」と。
そして、
人手を使って目的が達せられる場合や、仕方が無いことにできる理由がある場合には、
諦めもはやばやと・・・ということの方が多いかもしれません。
なんなら、
上手いやり方をなんとか人から手に入れよう・・・って、砂上の楼閣?
自分で工夫し、自分で動いて、何回もチャレンジして、できるようになる
なにかやり遂げたいことがあるなら、
中途半端な知恵や教えよりも、赤ちゃんと同じくらいの努力をしないと・・・ですね。
こんなこともトレーニング
2012年5月03日(木)
過去の病気のこともあって、
左手のトレーニングをかねて、たまにピザやパンを焼くようになりました。
かなり回復した今となっては、パンを焼くことは少なくなりましたが、
(実は私、生粋のご飯派でして_(^^;)ゞ、パンをあまり食べません)
我が家のホームパーティといえば、ピザが定番となっています。
トマトソースに時間がかかるので、少しだけ手抜きしている部分もありますが、
トレーニングと楽しみの両方から、生地も含めて自分で作ることにしています。
先週末にホームパーティがあったので、いつも通りピザを焼きました。
生地を捏ねて・・・
纏めてから、しばしのあいだ発酵させて・・・
発酵した生地を延ばして・・・(丸くないのは気にしない気にしない)
具をのせて焼いて・・・完成!!
(マルゲリータ/キノコ/じゃがベーコンと自家製アスパラ/黄桃カスタードの4種でした)
ピザやパン生地を手で捏ねるまとめる動作が、トレーニングにぴったりです。
多少不器用に動かしてもちゃんと捏ね上がりますが、
上手に手を動かさないと捏ねにくいのがトレーニングとして素晴らしいと思っています。
それに、成型のところで不格好になったとしても、おいしく頂けますので、
達成感も十分に味わえるのではないでしょうか?
次こそきれいな格好に・・・という欲も出てきます。
自分がいろいろできるようになるためのリハビリを・・・となると、
「ベッドに寝て動かしたり、揉んでもらう」「先生にやってもらわないとできない」「家ではできない」・・・になりがちですが、
生活の中でのちょっとしたこんな作業が、あと一歩使える能力となります。
皆さんの周りにも、自分の体にいいこと、きっと見つかると思います。
何かはじめてみませんか?
京都マラソンから思ふ
2012年3月04日(日)
いよいよ京都マラソンも近づいてきました。
エントリーができた人は、残り1週間の最終仕上げの段階ですね。
参加されるみなさん全員が、怪我も無く、完走できるといいですね。
国内では、市民マラソンが次々と開催されていますが、
参加される方もかなり多く、どこも希望者全員が参加できないくらいの盛り上がりだそうで、
みなさんの健康への意識が高く、運動などを行うことが当たり前になってきたことが伺えます。
さて、走ることですが、人間の基本的な能力です。
でも、20歳を過ぎると、めったに走らないと思いませんか?
そして、30~40歳ぐらいに運動会でがんばろうとすると、
転んだり肉離れしたりして走れなくなったなぁと感じることはありませんか?
定年も近くなってくると、走れないとおっしゃられる方のほうが多くなるようで、
普通に生活をしているだけでは、時間や老化とともに走る能力は失われることが多いようです。
この走るという動作ですが、
両足が地面につかず浮いている時間があるかどうかが、走ると歩くの違いだそうで、
走るということは、片足ずつ交互にジャンプしている状況に近いとのこと。
また、
走る・跳ねる動作をロボットとかでバネを使わずに再現することは難しいそうで、
二足歩行ロボットで処理するには膨大なプログラムや処理速度を使うそうです。
そういう意味では、
走ったり跳ねたりする動作は、生き物固有に持つすばらしい能力ですね。
できなくなると、すこし運動したぐらいでは、元のように戻らないのも、わかる気がします。
「走ったり跳ねたりすることができるかどうか」と「転びやすいかどうか」は
因果関係があるという話もあるようですので、
京都マラソンでがんばっておられる人の背中を見ながら、
老後に向けて、走ったり跳ねたりすることがし続けられるように、
運動嫌いな私も、がんばらないといけないなぁと感じます