続きです。 やりがい
2021年3月31日(水)
例年と違って早や桜がころあいですね。大原の郷は今が見頃です。
先にも書きました通り出来るだけ「おりこうさん」で通そうとはしてましたが、入院からしばらくは「寝たきり」に近い状態でしたから、看護師さんにいろいろとお願いせねばならないことも多く、「おりこうさん」どころか「手のかかるオヤジ」だったことは否定できません。
入院して数時間で困ったのがベッドのマットレスです。
腰痛持ちの私には柔らかすぎて、そのままだと腰痛が悪化しそうでした。普段なら寝返りしながら躱すという手もあったのですが、首を右なり左なりに向けるだけで眩暈がして吐きそうな状態でしたからできない相談です。
というような事情で、じゃあマットレスを変えよう、お願いしますとなったのですが、ちょっとベッドから退いてササっと変えるというわけにもいかず、結局どうしたかというと、看護師さん6人がかりでシーツごと私を揺らさないようにそっと持ち上げて、その間にマットレスを変えるという有り難いが大変申し訳ないことまでしていただきました。
その他思うように動けないがために看護師さんには色々と助けていただきました。
先日ある会議で看護の管理者の中で「やりがい」を感じている者が少ないという話を聞きました(腹の中ではそれ看護だけの話じゃなかろうて、とはちょっと思いました)。
「やりがい」と言うのはその人自身が感じることですから、その人の主観と言うか、価値観に左右されるものなんでしょうが、それだけではなくてその仕事の必要度というか、公益性も多分に影響される要素の一つだと思います。
私としてはこれほど人に感謝される仕事をしながら「やりがい」を感じないとは何事かとは思いましたが、人が(患者さんが)どれほど感謝しているか知らなかったら「やりがい」も感じ難い話かもしれない。
ではうちの看護師は患者さんの感謝の気持ちを知らないのか。
まぁ認知症で右も左もわからなかったり、悪態をつく患者さんであればごく一部とはいえ感謝の気持ちが伝わってこないこともあるでしょうが、たいていの患者さんは「ありがとう」の一言くらいは言っていただいていますし、言わずともそう思っている方も多いと思います(多分)。
いやいやいや、感謝の言葉ではなくて、まずは患者さんがどれほど困っていたのか気付かなければ患者さんの「ありがとう」も通り一遍の言葉としか感じられないんじゃないか…
ここに問題があるのかも。
ここ数年「患者の身になって考えろ」って言うの止めたというか、意味がないことに気がつきました。たいていの場合何かしらやらかしたセラピストに「患者の身になって考えたのか」と聞くと「考えた」割にはすっとこどっこいと言うざまで、返す刀で「自分の身になって考てみたのか」と言うと存外違う結論が出てくることが多いことに気がつきました。
わかりやすく具体的に言うと
「右腕が動かないAさんの気持ちになって考える」
「右腕が動かない自分とはどんな気持ちか考える」
これ同じようでいて全く違います。
よく皆が考えている前者のパターンは、以前にも書いたようにAさんの価値観が分かるわけないのでいい加減だったり明後日の方向の結論になったりする。後者は自分の価値観で考えるので地に足がついた結論になる。
とは言ってもAさんと自分の価値観が同じとは限らないので万事同じ結果とはならないのかもしれませんが。
「他人の身になって考える」ということがよくわからない人でも自分の気持ちにはストレートなもんで「自分だったら」と考えるように促すと割とすんなり誰にも納得できるような結論が出せるみたいです。
ですから今の時代「他人の身になって」と言うより「自分だったらどうか」と示唆するのが正しい導き方に思います。
勿論先にも書いたように考える人間の価値観が大きく世間とずれているようなら、創造的な才能を必要とする職業には向いているかもしれませんが、医療福祉の分野や一般の必要ビジネスには向いていないということになりかねません。
話が大きく逸れました。
看護に限らず医療の仕事にやりがいを感じられないのは、
患者の感謝の気持ちが感じられないからじゃないのか。
感謝の気持ちを感じられないのは、
患者の困っている状況を理解できていないからじゃないのか。
患者の困っている状況を理解できないのは、
患者のことを理解できもしないくせに患者の身になって考えようとするからではないのか。
本当は患者の身になって考えるのではなく、
自分「だったら」どう感じるのか、どう思うのか考えるのがいいのではないのか。
勿論それだけの理由でやりがいを感じないんじゃないでしょうけど。
と、やりがいについてそんなことをグルグルクドクドと考えてみました。
続きます。
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