京都大原記念病院グループリハビリスタッフのあんなことこんなこと

そんなこと

遠藤

面倒くさい

2023年6月24日(土)

先日、スマートフォンを買い換えました。

何年も使っていた機種から乗り換えました

 

以前の機種に慣れていたので、

ちょっとしたことが使いにくく、面倒に感じます。

ここを触ればよかったのに、この操作をしないとなんてことがあります。

まったく同じではないにしても、少し違うってことがどうするんだっけ?ってちょっと時間がかかったりします。

 

でも、

きっと、そのうち慣れて当たり前になってくると思います。

どんな道具も慣れるまでが不便です。

そして、道具に慣れるまでは失敗もあります。

でも、そのうち慣れて当たり前になります。

そんな中で、これだったらこんな使い方できるし、これもいいねって思うことも出てくるでしょう。

 

福祉用具も初めて使ったときは面倒くさいって思う道具もあります。

でも、

使っていると操作に慣れて

使うのが簡単になって、これ使えばいいよって誰かに教えたりするぐらいになったりします。

福祉用具を面倒だって敬遠される方もいらっしゃいますが、

暫くは面倒くさくても使ってみてほしいです。

慣れてきたら道具の真価を感じられるようになります。

 

使うのが嫌いだった道具が、

いつの間にか、手放せない道具になることもあるかもしれませんよ。

こんなこと

遠藤

レッツ、ウォーキング

2023年6月13日(火)

おおはら雅の郷では、

紫陽花が満開には程遠いですが、咲き始めました。

 

ポールウォーキングをご利用者さんにも試してもらったりしているのですが

ポールを持って、ふざけてスキーの真似をされるかたもいらっしゃいます。

 

ポールウォーキングはもともと、

ノルディックスキーの夏場のトレーニング用にストックを持って始まったものが

ノルディックウォーキングとなり、

日本では、ノルディックウォーキングをもとに

ポールウォーキングをお医者さんが考案された(Wikipedia参照)のです。

 

だから、

このご利用者さんがスキーを連想するのは

ごもっともなことなのです。

 

もちろん両手にポールを持ったら荷物もなにも持てませんし日常生活には支障があります

なので、日常生活をポールウォーキングでしてほしいわけではありません。

あくまでもトレーニングです。

どんなトレーニングも、トレーニングは結局、非日常ですからね。

 

ポールウォーキングで

おしゃべりしながら、楽しく、よりよい姿勢で、大股に、元気よく歩けるなら

楽しく元気になれるリハビリがしたい私にとって

いうことなしです。

 

まじめにコツコツももちろん大事ですが

大胆に楽しくも体の動きを引き出すのに効果的ですよね

 

また、誰かと

レッツ ウォーキング

こんなこと

遠藤

紫陽花はこれからです

2023年6月05日(月)

紫陽花の季節になってまいりました。

大原の紫陽花はまだまだこれから咲き始めです

ほとんどはまだ緑色で小さなブツブツの塊ですが、

少し開いて色づいたものが出てきましたので写真撮ってみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本物はまだまだこれからですが、

ご利用者さんと作ったカラフルな紫陽花が満開です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真だと小さく見えますが、実際には一つ一つの花がお花紙で作ったお花ですので

本物の紫陽花と同じぐらいの大きさです。

カタツムリはかなり本物よりも大きいですが。

 

創作活動も季節を感じてもらうことができます。

作ってくださったご利用者もそうでないご利用者も

見て喜んでおられました。

目の見えないご利用者も触れて楽しんでおられました。

 

身体を動かすだけじゃありません。

見て、触れて、感じて、元気になる。

それもリハビリです。

そんなこと

遠藤

夏、雨、といえば

2023年6月02日(金)

昨日の朝、

まだこれからの紫陽花の葉っぱの上に

みつけました

 

 

 

 

雨蛙

 

 

 

 

 

 

次は、カタツムリを探さないとですね。

こういうのを探しながら散歩するのも「脳トレ」ですね。

ただ「歩く」だけでなく、

何かを見つける「脳トレ」もしませんか?

そんなこと

橋本

新ダイバーシティ

2023年6月01日(木)

更に往年の映画タイトル風です。

 

「多様性を受け入れよう」という価値観は結局のところ「多様性を受け入れない」という価値観を受け入れるのか、受け入れないのかという議論に行きつくらしいです。

 

障害者や性的少数者を受け入れるか、受け入れないかは「価値観」とみられて倫理的問題みたいに思われていますが、生物学的にも必要なことだそうです。

 

6500万年前に地球にどすんとでかいでかい隕石が落ちました。それがきっかけで地球にのさばっていた恐竜は滅んで、代わりに哺乳類が蔓延りだし、今では人間が我が物顔です」。

 

これは「弱肉強食」ではなく「適者生存」だそうです。「弱肉強食」であれば生物連鎖の頂点には常にTレックスのような肉食恐竜が鎮座していたんでしょうが、強い者が生き延びるのではなく、環境に適応した者が生き延びるわけです。

 

どう環境が変化するかもわからず、どの種のどういう特性が適応するかもわからないわけですから、生物あるいは人間という種を単体で見ても多様性を確保しないと環境に適応できない種は絶滅するわけです。

 

そういう観点からすると「多様性を受け入れない」という価値観を受け入れるのか、受け入れないのかという議論は環境(社会)が将来どう変容するかもわからず、したがって何が生き残れるかも不確かな状況なので、「受け入れたほうがいい」という結論になると思います。

それもその後の環境変化を考えると生き残れる種が一つだけというのは、結局廃れるわけですから、生物としても人間としても兎にも角にも沢山の種(価値観)があったほうがいいわけです。

 

地球上の生物として、その中の人類として文字通りの生き残りがかかっているとするなら、もはや受け入れるとか受け入れないとかの議論は的外れみたいに感じます。考えるべきはどう受け入れるかでしょう。

 

受け入れるべきとはいっても、アメリカの元大統領の言動で二分されてしまった社会を見ていると、不要な軋轢を避けるためにも偏在というか、偏りは致し方ないのかなと思います(例えばトランプ支持派とブラックパンサーの2グループが同じ場所にいたらバイオレンスな展開しか予測できません)。

 

ある程度似た者同士集団を作って、摩擦を生まない程度の接触を保つのが無難な感じがします。

地域、仕事、学校、趣味、嗜好、年齢、家族等々いろんな枠組みの集団が離合集散繰り返しながら、混乱や軋轢を避けて居心地の良い場所やグループを探しているんでしょうね。

 

自分とは(見てくれが、考え方が)違う存在を排斥するというのは、「良い」とは言えない価値観ではありますが(今の社会では)、そういう価値観を持つ人たちを「赦せない」というのもそもそも不寛容だし矛盾していると思います。

 

「そんな人たちもいるよね。面倒やし関わらんとこう」くらいの寛い(ひろ・い)心が必要みたいです。

 

私も気に入らない人に対しては「いるのは仕方ないが、視界に入るな」くらいは思っているのですが、これは「狭い心」でしょうか、この程度なら「寛大な心」と言ってもいいのでしょうか。

 

まぁ思ってはいても表に出さないだけのマナー(というか社会性)ぐらいは身につけた方がいいようです。

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