対価
2016年5月05日(木)
暦通りなんで三日連休二つと連休ひとつみたいな感覚です。
息子は中学生ですがこの連休のさなかでも土曜日も授業や部活があるので、やはりGWという感覚ではないようです。
私が中学生のころは振替休日も「国民の休日」もなかったので文字通り「飛び石」なんてGWもありました。
30年前就職したての頃は、初任給も支給前、国試発表もGW明けと言うことで、まったく楽しめない連休でした。
最近理事長はロボットを連呼しています。少子高齢化の折、来るべき(もう来ちゃってるかも)人出不足をロボットで乗り切れる可能性なんかを考えているようです。
そんな影響か私も連休前に展示会なんかに足を運んでロボットを見て回ったり、新聞、雑誌、webなんかでロボットに関する記事があれば読むようにしています。
アメリカでは最近時給$15(ざっと¥1,500-ですね)運動なるものがあって、その反動で人を雇えない企業がヒトからPCやロボットに労働をシフトしたと言いたいらしいです。
私はヒトを「雇えない」のではなく雇うに値しない、あるいは時給¥1,500-の労働に値しない仕事は機械任せと企業が判断したんだろうと思います。
機械がヒトにとって代わるととるのか、機械に出来る仕事はヒトがするに値しない、ヒトはヒトらしくヒトにしかできない仕事をやるべきなのか。
安い時給では最低限の人間らしい生活もままならないという話もよく聞きます。
厳しい見方をするなら、人間らしい(人間ならではの)仕事でなければ、人間らしい生活はできないと言うことでしょうか。
話はちょっと変わりますが、ちょうど20年前、ネットが流行りだしたころ、私もセラピストのメーリングリスト(ML:まぁ今じゃ皆さんLINEでしょうけど)に加入していました。ちょうど介護保険法が制定されたころで、巷ではいろんな講習会(特にヘルパー関係でしょうか)が盛んに行われていたころです。
あるML会員からヘルパー養成講座の講師を引き受けて行ってきたのだけれど時給¥3,500-は相場なのだろうか云々と投稿がありました。
それに対して少ないレベル、もっと多くてもいいのではないかと言うのが大半の反応だったと思います。
MLと言っても私もその他大勢と同様ROM専門の会員でしたが、その時はちょっと違うのではないかと初めて投稿したのを覚えています。
相場とか多いとか少ないとかの意見はいかがなものか。その仕事をする人がどういう経験値を持っているのかも検討せずに、経験10年、20年だろうが、新人だろうがお構いなしに相場で時給いくらと議論するのはおかしい。
今相場云々と言っていられるのはセラピストが少なくて、需要に供給が追い付いていないから。いずれ供給と需要は逆転する。そうなった時に相場は時給¥1,000-だからと、経験10年20年もゼロも十把一絡げにされて文句言わないのか。
相場ではなく中身に応じた評価がされるようにしないと大変なことになる(相場と言うのは需給バランスを現しただけで、仕事の評価とは別物です。同等と勘違いしているセラピストが昔は沢山いたようです)。と言うようなことを投稿しました。
労働に対価を得るのは当然とおよそ見当違いの反論をする人1名がずっと私にかみついてきていましたが、取り合いませんでした。
結果どうなったか。
当時少ないかもと言われていた時給¥3,500-として1日8時間労働なら日給¥28,000-。月に20日間労働として月給換算で¥560,000-。年間¥6,720,000-。
厚労省の算定ではセラピストの平均年収は年々減り続けて今や年収¥4,000,000-を切っています。
それがすべてとは言いませんが相場と言う目先の損得に気を取られてばかりいて「正当な評価」を失念していたことが、一因とは言えないでしょうか。
時給$15運動、結構なことです。でも機械で代替可能な仕事であればいずれ誰も一銭も出さなくなるでしょう。
よくよく考えてみれば人間でしかできない仕事と言うのは年々少なくなってきているようです。
クリエイティブな仕事は大丈夫と言われてましたが、今やAIが小説を書くようになりました。
かくいう私も10年後にはお払い箱かもしれません(あ、定年か)。
心配というより不思議なんですが、人類の能力を100としてその人類が能力200のAIなりロボットを作ることが本当に可能なんでしょうか。
巷間言われる「鳶が鷹を産んだ」と言うことでしょうか。
あまり「こどもの日」にふさわしい話じゃなかったですね。
次回私のブログは5/12です。