京都大原記念病院グループリハビリスタッフのあんなことこんなこと

あんなこと

橋本

あっちがわ

2017年6月22日(木)

もう30年も前、学生時分に見た映画に「コクーン」というのがあります。

端折りまくって説明すると、老人ホームに住まう老人たちが異星人と知り合い、紆余曲折あって最後には異星人たちとともに永遠に生きられると言う彼らの星へ旅立っていくと言うお話です。

 

映画を見る前でしたが当時新聞で映画評を読んでみると、映画のエンディングに賛否両論あったようです。映画の最後は異星人の星へと旅立って行った老人たちの残された家族(子や孫)が彼ら老人の葬式を上げるシーンで終わっていました。

残された家族にとって生きていると言われても、誰も知らない土地(星)に行かれては今生の別れにもなるし彼の星とあの世の違いもわかるべくもなく、、「死んだも同然」と言うことでしょうか。

 

片や宇宙へ旅立った老人たちも家族や住み慣れた土地(地球)を離れ、異星で永遠に生きると言うのは、地球で死ぬことと何か違いがあるのでしょうか。

まぁ死後の世界があるとするなら、「違いはない」と言うことになるんでしょう。

 

3月に見た映画「パッセンジャー」は地球時間で120年かけて植民地惑星へ向かう宇宙船内が舞台となります。乗客の一人に女性作家がいます。彼女は120年かけて植民地惑星へ行き、1年をそこで過ごし、また120年かけて地球へ帰るつもりです。

その為家族や多くの友人や知人を残してきたわけですが、彼らにとって彼女は「死んだも同然」なんです。勿論生物学的には彼女は生きていて、240年後には地球に帰ってくるわけですが、当然家族も友人や知人の誰一人として生きているわけもなく、彼女にとっても旅立ちと同時に今生の別れとなり、彼らは彼女にとって「死んだも同然」です。

勿論連絡を取る方法はありますが、光や電波の速度でさえ数十年かかる距離です。非現実的です。

 

事を分明にするために、言い方は悪いですが私は何度も「死んだも同然」と書きました。

生きていながら何故「死んだも同然」なのか。

 

それは望むと望まざるとに関わらず、普通の社会生活から切り離されたからだと思います。

何も宇宙旅行を引き合いに出さずとも。現実でも社会生活からの切り離しは行われています。

 

ご存知だと思いますがリハビリテーションの仕事は、患者さんの退院後の生活がいかに円滑に行われるかに腐心することでもあります。

 

患者さんは十中八九長年慣れ親しんできた自宅へ帰りたいと言われますが、障害の程度や自宅の状態、独り暮らしか家族と同居なのかで、退院後の生活は大きく左右されます。

 

客観的に見れば正しいと思える判断でも、患者さんやご家族の希望に添えない提案をしなければならないこともあります。最終的には患者さんとご家族の判断に任せるとは言いながら、患者さんもご家族も私たちの意見に重きを置いていただいている方々が多いことも承知しています。

 

京都大原記念病院は回復期リハビリテーション病棟主体の病院ですから、患者さんに家に帰って貰ってナンボなところはあります。ですが患者さん自身がどれほど家に帰りたいといっても、ご家族が家に帰したいといっても残念ながら「施設」という選択肢を提案せざるを得ない場合もあります。

 

私たちとしてもよりベストと思われる選択肢を提案するわけですが、如何なる理由があるにせよ、自宅ではなく施設へという選択は今までの社会生活からの切り離しの意味合いを大きく感じてしまいます。

 

勿論施設に入ったからと言って「今までの社会生活からの切り離し」=「死んだも同然」ではありません。そうなりがちなのはやはり本人と周囲の対応次第ではないかと感じます。

 

本人と周囲の対応次第と言うのはまた次の機会(出来れば次回)に。

 

次回私のブログは6/29です。

 

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