今日は立春
2016年2月04日(木)
暖冬とは言いながら、それなりに寒いです。
今朝も車のフロントグラスに水滴がついてるなと、ワイパーかけたら瞬間で凍りました(過冷却です)。
私が「教育」を意識したのは実習生を病院に受け入れるようになってよりも後のことで、求人の関係で養成校の先生方とよく話すようになってからのことです。
(大学、専門学校に限らず)学校で何をどこまで教えるべきなんだろう、社会で教えるべきは何だろう、そも「教育」とはなんぞや。
などと言うことを出張の行き帰りの電車の中でおやつの合間にぼんやり考えていました。
私の結論は「教育とは、親が死んでなお一人で生きていけるようにすること」です。
つまりは「自立」と言うことですが、逆説的ですが人間は社会的生き物ですから、一人では生きていけません。
ですから「教育とは、親の庇護を必要としなくても生きていけるようにすること」でもいいのかもしれません。
親の庇護がなくとも子が一人で生きていけるというのは、親としても何よりの安心ではないでしょうか。
先述の記事も「親子関係の変化」の一言で片づけられるものなら問題ありません。
親子関係の変化の陰に相当数の「親離れ、子離れ」出来ていない親子がかなりいる気がするのは私だけですか。
いずれにしろそういう私自身の考えから発展させて、当院のリハビリテーションの目的の第一には患者さんの自立としています。
家族の庇護がなくとも障害を持った患者さんが一人で生きていけるというのは、身内の誰にとっても「安心」なことではないでしょうか。
とは言いながらも、障害者の場合その程度によっては多くの人の助けがなくては一人では生きていけません。
ありとあらゆる在宅サービスが必要となるかも知れません。
それさえ可能なら「安心」か?、「大丈夫」なのか?
おそらく多くの人がそれでも「安心」でも「大丈夫」でもないと感じているはずです。
何故か、それだけでは緊急事態に対処できないからです。
では最低限の緊急事態への対処とはなんでしょうか。
「助けを求める」これです。
助けが求められない状態なら、緊急事態になっても出来るだけ最短で誰かが気付く状況を作っておくこと。
更に
それに対応できる状況を作っておくこと。
どれほど人の手助けを加えて、極力不自由ない生活をすることが出来たにしろ、緊急の事態に対処できなければ万事往来とは言えません。
逆に不自由ある生活でも、緊急事態に対処できていれば安心なのです。
これから独り立ちする子供も何事もなければ何の心配もない生活が送れるでしょう。ですが何事も思うようにいかないのが人生です。それに対応できるかどうかが教育の肝でしょう。
障害者の自宅復帰もあらかじめ予想される問題に対応するのは誰にもできることで、在宅生活の突発事態(まぁ大体の場合一人でいる時の急病ですね)にどう対応するのか考えておくのが、リハビリテーションの肝じゃないかな(日常の生活が送れるだけじゃ「大丈夫」とは言えませんよね)。
えぇ~~~~っと、今回文章まとまってますか?
なんか業務の合間ゝゝに書いたので。
次回私のブログは2/11です。
紅炉上一点の雪
2016年2月02日(火)
辞書を開くと、「火の上に一点の雪を置くとすぐにとけるように、私欲・迷いなどがとけること。」と書かれています。
禅語の一つで、「死」に対する答えともされています。
死や正念相続の様子、雑念を物理的現象でうまく例えた言葉だと思います。
心に残る好きな言葉の一つです。
川中島の合戦で有名な武田信玄と上杉謙信の一騎打ちにこんなエピソードがあります。
謙信が武田の本陣に切り込み、信玄に「如何なるか是れ剣刃上の事」(一刀両断されたら、お前はどうするのだ)と刃を振り出し、信玄は鉄扇で払い「紅炉上一点雪」(振り下ろす刃の下でも、生もなく死もない。すなわち、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし)と返した という逸話です。
また、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討たれる際、死を受け入れた気持ちを表した辞世の句とも言われています。
素敵。
先週、「多忙」と書き込みました^^;
今週も焦りと余裕のなさが前面に出ているのが自分でも分かります(-_-;)
「紅炉上一点の雪」のようにすべてを迷いなく受け止め、いまそこにある状況をサラリと越えることができればかっこいいのになぁと思わずにはいられません。
が、まだまだ悟りを開くには未熟なようです(笑)
今週もおおいにあがこうと思います。
如月
2016年2月01日(月)
2月は如月(きさらぎ)と申しますが、この語源は説がいくつかあるそうです。
- 旧暦二月でもまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)を更に着る月であるから「衣更着(きさらぎ)」
- 草木の芽が張り出す月であるから「草木張月(くさきはりづき)」
- 前年の旧暦八月に雁が来て、更に燕が来る頃であるから「来更来(きさらぎ)」
- 陽気が更に来る月であるから「気更来(きさらぎ)」
ウィキペディアより
こうしてみても、寒さと暖かさの境目の月というところでしょうか?
でも、何か感じる空気が変わるそんな季節でもあるのでしょう。
春を待ち焦がれる季節とういうところでしょうか。
寒くもあり暖かさも感じる。植物も春に向けて少しずつ準備を始める。
これからを感じる月です。
窓から見える景色、散歩で見られる草花、何気に聞こえる鳥の声、何か変わりはありませんか?
ちょっと感じてみてください。
私は先週、八瀬の駅前を歩いていたらこんな変化を見つけました。
梅のつぼみです。
少し開いているのがありました。
なんか、あたたかく感じませんか?
うれしくなりませんか?